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平成13年(ワ)第2870号、平成14年(ワ)第385号損害磨償請求事件
原  告  ○ ○ ○ ○外62名
被  告  小  泉  純一郎 外1名


                     準備書面(原告ら第5回)

        
                                     2003年4月25日
千葉地方裁判所
  民事第5部合議B係  御 中

                             原告ら訴訟代理人弁護士  ○  ○  ○  ○
                                   同           ○  ○  ○  ○
                                   同           ○  ○  ○  ○
                                   同           ○  ○  ○  ○
                                   同           ○  ○  ○  ○
                                   同           ○  ○  ○  ○
                                   同           ○  ○  ○  ○
                                   同           ○  ○  ○  ○
                                   同           ○  ○  ○  ○
                                   同           ○  ○  ○  ○
                                   同           ○  ○  ○  ○
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目次
はじめに
第1章 国家神道の歴史とその役割
第1 国家神道の歴史
 1 国家神道の政治的創出
 2 神道国教化政策の推進
 3 国民教化運動への転換
 4 国家神道の超宗教化
 5 旧憲法・教育勅語と国家神道
 6 国家神道体制の確立
 7 国家神道による思想統制・宗教統制
 8 国家神道の最盛期
 9 国家神道の解体
第2 国家神道が果たした役割
 1 国家神道の基本的性格
 2 国家神道の教義による国民教化と統制支配
 3 国家神道体制における「個人の尊厳」の否定

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第2章 靖国神社の歴史とその本質
第1 問題の所在
第2 国家神道体制下の靖国神社
 1 靖国神社前史
 2 東京招魂社の創建
 3 別格官幣社靖国神社の成立
 4 日清・日露戦争と靖国神社
 5 ファシズム体制と靖国神社
 6 戦後における靖国神社
 おわりに 〜靖国神社の本質〜

【はじめに】
 本件訴訟の争点のうち最大のものといえるのは,現役の内閣総理大臣による靖国神社公式参拝が,現行憲法に規定する「政教分離」の原則に違反するか否かであるが,この憲法判断をするにあたっては,その前提として,次の各事実を明らかにすることが必要不可欠である。
 すなわち,その第1は,国家神道の歴史およびそれが明治維新から太平洋戦争の敗戦に至るまでの日本の政治や社会に果した役割であり,これらを確定することにより,現行憲法における「政教分離」の原則をいかに解すべきかの視点が導き出される。
 第2は,靖国神社の歴史とその基本的性格であり,これらを確定することにより,@靖国神社が戦前の国家神道体制の中で中心的地位を占めていたこと,Aその基本的性格は戦前・戦後を通じて全く変わっていないことが明瞭となる。
 第3は,戦後における靖国神社国家護持運動の歴史および本件靖国神社公式参拝決議に至る経過とその意味内容であり,これらを確定することにより,右決議が靖国神社国家護持運動の一環として組織的になされたものであり,また,上記「公式参拝」が現行憲法第20条3項の禁止する国家機関による宗教的活動に該当することが明瞭となる。もっとも,第3の点についての詳細な主張については,次回の準備書面に譲ることとする。
 以下,前記第1およぴ第2の各事実につき,詳論することとする。

第1章国家神道の歴史とその役割
 現行憲法第20条および第89条は「政教分離」の原則について極めて厳格に規定しているが,これらは,旧憲法下における政教一致体制において国教的地位にあった国家神道の教義が,国家主義およぴ軍国主義の精神的支柱として機能し,国民の精神を全面的に統制支配するとともに,国民および近隣諸国民に償うことのできない戦争の惨禍をもたらしたことに対する深い反省から生まれた規定である。従って,現行憲法が規定する「政教分離」の原則を理解するためには,旧憲法下における国家神道の歴史とその果した役割について十分に検討することが不可欠である。
以下,第1に国家神道の歴史を概観し,第2に国家神道が果した役割につい


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て考察する。
第1 国家神道の歴史
 1 国家神道の政治的創出
 国家神道は,明治維新から太平洋戦争の敗戦に至る約80年間にわたり,日本における宗教界はもとより,国民一般の精神生活を全面的に統制支配したが,それは明治維新という特殊な歴史的過程の中で,政治的に創り出されたものであった。
 すなわち,徳川幕府を打倒した倒幕諸藩の連合は,その連合の紐帯に必要な象徴として,天皇の持つ宗教的イデオロギー上の権威を利用したが,倒幕後は,明治新政府が,自己を権威づけ,正当化するための根拠として再び天皇の宗教的権威を政治的に利用し,「王政復古による天皇親政」を強調することにより,幕藩体制の解体と統一国家の建設を押し進める政策をとった。また,維新直後に明治新政府が中央集権的な統一国家を整備するうえで当面した重要課題は,「国家の近代化の実現」と「国民的統合の早期形成」という問題であったが,国家の近代化は,いわゆる「富国強兵」「殖産興業」の二大政策を推進することによって計られ,また,国民的統合は,王政復古・祭政一致を軸とする神道国教化政策を通じて実現することが企てられた。ここにおいて,天皇崇拝と直結した神社信仰としての国家神道の形成への途が開かれることとなったのである。

2 神道国教化政策の推進
 ところで,維新当時,天皇の存在すら知らない人民が多かったため,新政府は,強引で性急な神道国教化政策を次々と実施することによって天皇崇拝の意識を人民に植え付け,統一国家体制確立の前提である国民の精神的統合を早期に実現しようと図った。
 すなわち,新政府は,1868年,神祀官再興を布告するとともに,神仏判然令を公布した。新たに再興された神祇官は,古代の神祇官にはなかった,神道による国民教化を目的とする「宣教」の任務を担っていたが,1870年には,大教宣布の詔が出され,「大教」の名で天皇の宗教的権威を基本とする神道的な国体観念に基づく国民教化が一段と進められることになった。1871年には,社寺領の没収(官収),全国の神社を官社・府県社・郷社・村社および無格社の5段階に格付けする社格制度の制定,氏子調べ制度の新設など,神社の中央集権的再編成のための重要施策が相次いで実施された。また同年に神社はすべて「国家の宗祀」である旨の太政官布告が出された。この太政官布告により,全国の17万余にのぼる大小の神社は,公的性格を与えられると同時に国家行政機構の枠組みに一元的に変遷され,それ以後,天皇の神話的先祖である天照大神を祀る伊勢神宮が,全国の神話の本宗と定められ,神社の中枢の位置を占めることになった。

3 国民教化運動への転換
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 神道国教化政策は,以上のような一連の政府の諸施策によって積極的に推進されたが,他方,キリスト教弾圧や排仏毀釈といった深刻な間題を引き起こす原因となった。このような事態に対応するために,1871年,政府は,神道国教化政策を国民教化運動に転換し,これまでの大教宣布運動を,さらに神道・仏教・民間諸宗教を総動員して発展させる政策をとるようになった。
 国民教化運動のもとでは,その運動要員である教導職の資格をもたない者の布教活動が処罰されたため,民間の諸宗教は,白主的活動を禁圧され,しぱしぱ弾圧の対象とされた。このような中で,民間諸宗教に政府の宗教政策に迎合する体質が形成されることとなり,民間の仏教系,習合神道系,山岳信仰系などの多元的な諸宗教は,神権天皇制の枠内に強引に組み入れられ,国民教化の一翼を担わせられることとなった。

4 国家神道の超宗教化
 国民教化運動は,神権天皇制のイデオロギーの定着に一応の成果をあげたが,この運動は,国家権力が上からの布教によって新しい宗教をつくり出すという特異な性格を有していたことや運動の内部で,神道と仏教との抗争が激化したことから,次第に仏教側から信教の自由を要求し,政治と宗教の混淆を批難する声が強まった。そのため,政府は,1875年,信教の自由を保障する旨の口達を出さざるを得なくなった。
 ここで,政府は,信教の自由と「国家の宗祀」とされた神社を,どのように両立させるかという難間に直面することになった。しかし,政府は,これを打開する方策として,神社神道から,葬儀行為などの宗教色を抜いて,祭祀のみを残し,祭祀のみの神社は,宗教のもっている一般的性格を欠くから宗教ではなく,従って政教分離を実現したことになるとしたうえで,国家神道を他の宗教に超越するものとして位置付けようとした。
 政府は,明治10年代に,こうした国家神道の超宗教化の基本方針に基づいて,神社行政を内務省に移管し,一般宗教としての教派神道を祭祀に限定された国家神道から明確に区別する形で独立させ,伊勢神宮と官社の神官に葬儀への関与を禁止し,さらに神仏教導職を廃止するなど,一国家神道の超宗教化のための法制面の準備をすすめた。

5 旧憲法・教育勅語と国家神道
 1889年に制定発布された旧憲法は,第1条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」,第3条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」,第4条に「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬ス」と,それぞれ規定し,統治権の淵源,すなわち主権が天皇にあることを明らかにした。
 旧憲法の基本原理は,いわゆる「国体」の原理であり,それは,我国の建国以来,天皇は,天孫降臨の際に天照大神が下した「天壌無窮」の神勅に基づいて我国を統治する地位にあり,臣民は,本来的にこの天皇の統治に無条件に隷従すべく運命づけられているとする原理であった。つまり,旧憲法は,神権天


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皇制をその根本義とするものであった。
 旧憲法第28条は「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限二於テ信教ノ自由ヲ有ス」と規定していたが,他方,その「告文」およぴ第3条において,祭祀大権の保持者としての天皇の宗教的権威の神聖不可侵性がうたわれ,「天皇を最高の祭祀者とする国家宗教」としての国家神道の公法上の地位が確立された。
 従って,旧憲法にいう「信教の自由」は,国家神道と両立する限度においてのみ認められたものであって,天皇の祖先が神々であり,天皇自身も神の子孫として神格を有することを否定することは許されず,結局,宗教の本質からいって,このような限界は,信教の自由そのものを否定するに等しかった。
 旧憲法発布の翌1890年,教育勅語が発布され,国体である神権天皇制を前提とする忠君愛国の国家主義的観念を養成することが,教育の最高の理念とされた。政府は,教育勅語を単に教育の基本方針としただけではなく,旧憲法を精神面から補強するものとして,国民の間にその趣旨を周知徹底させた。その意味で,教育勅語は,国家神道の事実上の教典としての役割をも有していた。
このようにして旧憲法と教育勅語の発布により,国家神道の教義は,国体の教義そのものであることが思想的に確定した。
 国体の教義は,神である天皇が統治する日本の神聖性の主張であり,その根拠は,もっぱら記紀神話に依拠して説明された。そして,国家神道の説く,国体の教義の中心には,世界における「神国日本」の絶対的優越性の主張,全世界を指導する聖なる使命意識および神に率いられた日本民族という選民意識があり,それらが排外的民族主義ないし軍国主義の土壌となって,やがて天皇の名による戦争は,無条件に「聖戦」として美化されるに至った。

6 国家神道体制の確立
 その後の国家神道は,内務省の神社行政による国家の手厚い保護のもとに,@神社の統廃合,A皇室神道を基準とする神社祭祀の統一,B明治神宮・海外神社等の有力神社の創建,C神職制度の整備による宗教官僚機構の確立,神社財政の拡充,といった措置が次々と実施され,1910年代には制度的に完成した。
 ところで,このような国家神道の制度的確立の背景には,日露戦争における宗教界あげての戦争協力に続く,国家公認の三教(教派神道・仏教・キリスト教)の国家奉仕の姿勢の定着があった。1912年,政府は,神仏基の三教の代表者を集めて三教合同会議を開催したが,そこでは,右代表者達が「皇道ヲ扶賽シ益々国民道徳ノ振興ヲ図ル」ことを決議し,国家神道体制への忠誠を表明した。これを機会に,政府は各宗教に対し,国体に基づく国民教化の一翼を担って活動することを要求し,宗教の政治的利用を積極化することになった。

7 国家神道による思想統制・宗教統制
 日清日露戦争を経て,日本の資本主義経済は飛躍的に発展したが,その反面,

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種々の社会間題が深刻化し,労働運動・農民運動が盛んになり,社会主義思想が国民の間に普及し始めた。
 このような状況下にあって,社会運動の激化を恐れた政府は,国民の思想「善導」を急務と考え,1908年に国民に対し国家の隆昌と皇祖皇宗の威徳を発揚することを求める内容の「戊申詔書」を発布し,国民教化の新教典として,全国的に普及することを図った。また,1925年には,国体の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社およびそれへの参加を処罰する治安維持法が制定された。
 また,政府は,国民を神権天皇制のイデオロギーに「善導」する方針を強化し,その国策遂行のための思想統制の一環として,宗教統制を目的とする宗教法の制定が企てられ,1926年「宗教制度調査会」が設置された。
満州事変から日中戦争へと戦時体制が強化されるに従い,思想統制および宗教統制がさらに厳しくなり,政府は宗教界に対し,国家神道体制のもとで国策遂行のために国民教化の役割を積極的に果すことを強く要求するようになった。他方,国家神道体制を逸脱した民間の新興宗教は淫詞邪教視され,国家権力による徹底的な弾圧が加えられた。
 そして,1939年に宗教団体法が制定され,これによって神仏基の公認宗教をはじめ,すべての非公認の民間宗教は,その設立・運営・人事・財政の全般につき行政当局の統制と監督のもとに置かれることになり,信教の自由は完全に否定されることになった。そして,第二次大戦中の1943年,大多数の宗教団体は,宗教団体法に従って「大日本戦時宗教報国会」を結成し,戦争に協力する態度をとらざるを得なくなった。

8 国家神道の最盛期
 1940年,内務省の外局として神祇院が設置され,これにより,神社行政は大幅に拡大強化され,国家神道は,各宗教の上に君臨して,国体の教義の普及に総力を投入することになった。こうして国家神道は,神権天皇制下の国家主義・軍国主義の精神的支柱として,最盛期を迎えることになった。植民地・占領地には,次々と神社が創建され,天照大神の神威と天皇の御稜威を全世界に及ぼすための「聖戦」という侵略思想が鼓吹された。この時期には,国体の教義の侵略的性格が戦争の激化とともに増幅され,「八紘一宇」の名のもとに世界征服をめざす「聖戦」の正当化が国家神道教義の中心を占めるようになった。国家神道による国民教化と思想統制は狂信的な激しさを加え,戦勝祈願,慰霊祭,楔と祓い,思想動員に,神社の役割は増大する一方であった。そして,「神国日本」の国体意識の高揚が図られ,国民教化は国体の教義一色に塗りつぶされた。また,学校教育においても,特に義務教育である初等教育では,修身と国史を中心に国体の教義の普及・徹底が行われた。

9 国家神道の解体
 太平洋戦争末期には,戦局が悪化して,国民生活が極度に窮乏するに至った

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が,政府は「聖戦完遂」「神州不滅」を叫んで,国民の戦意を鼓舞しようと努めた。しかし,1945年8月3日,ついに日本はポツダム宣言を受諾し連合国に無条件降伏をした。
 ポツダム宣言第10項は,「日本における信教の自由の確立」を要求していた。この要求の実現にむけて,同年10月,連合国軍最高司令部は,「政治的,社会的およぴ宗教的自由に対する制限除去」の覚書を発し,また,同年12月には,神道指令を発して国家神道を禁止するとともに,政教分離の徹底的実施を命じた。同月,宗教団体法は廃止され,緊急勅令で民主主義的な宗教法人令が公布施行された。さらに,1946年元旦,天皇は「人間宣言」を行なって,自ら現人神としての神格を否定し,同年2月には,神祇院官制をはじめ神社関係の全法令が廃止されて,国家神道は,制度上,完全に解体された。
 そして,1946年11月3日,現行憲法が制定公布されたが,旧憲法下の国家神道体制に対する反省のうえに立って,その第20条において,信教の自由と政教分離の原則を特に厳格に定め,次いで第89条において,政教分離の原則を実効あらしめるため,特定の宗教団体に対する公金支出および公の財産の使用を禁止することを明文で規定した。

第2 国家神道が果した役割
1 国家神道の基本的性格
 前述したところからも明らかなように,国家神道は,明治新政府が中央集権的な統一国家体制を確立するにあたり,自己を権威づけ,かつ国民的統合を早期に形成するために,天皇の宗教的権威を政治的に利用するという歴史的過程の中で成立した,極めて政治性の強い宗教である。
 すなわち,明治新政府は,明治維新に伴って生じた政治的・社会的混乱を克服して,統一国家体制を確立するために,国家の機軸として神権天皇制を採用し,「王政復古による天皇親政」という政治形態をとったのであるが,国家神道は,この神権天皇制を宗教的に基礎づけるという役割を有していた。また,国家神道は,日本固有の民族宗教としての「神社神道」を,天皇を主宰者とする宮中祭祀としての「皇室神道」と結合させ,皇室神道を基本に中央集権的に再編成することによって成立した。ところで,民族宗教とは,宗教学上の概念であるが,それは,一般に体系的な教義と特定の創唱者をもたない,祭祀儀礼を中心とする宗教で,社会集団としての共同体と宗教集団としての共同体が完全に重なり合う点に特徴がある。国家神道は,神社神道が有していた,このような民族宗教としての共同体原理を国家的規模にまで拡大し,その教義によって国民の精神生活を全面的に支配したところに特異性がある。
 国家神道の教義は,前述したように,神権天皇制を核とする国体の教義そのものであり,その中心には,世界における「神国日本」の優越性の確信,神に率いられる日本民族という選民意識およぴ日本が全世界を指導するという使命意識があった。従って,国家神道は,本来的に日本国内においてしか通用せず,世界宗教にはなりえない性格のものであった。それ故,国家神道は,日本にお

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ける国家主義・軍国主義・ファシズムの精神的支柱として極めて有効に機能し,また,排外的民族主義,侵略主義の精神的土壌を形成するうえで大きな役割を果した。
 すなわち,国家神道の思想は,内政的には天皇帰一の家族国家観を,対外的には排外的侵略思想をそれぞれ宗教的に基礎づけるものであり,満州事変勃発から太平洋戦争に至るファシズムの最盛期における国家神道の軍事的侵略的教義の展開は,国家神道の本質の顕在化であった。
 また,国家神道は,天皇制ファシズムの台頭の時期に,国民の思想統制のための強力な武器として政治的に最大限に利用され,国家主義・全体主義の方向へ全国民を統合するうえで大きな役割を果した。ドイツのナチスの指導者達ですら,日本における「国家神道」という政治的祭儀による思想統制を最高の規範として,それを模倣しようと努力していたことは,注目に値する。

2 国家神道の教義に基づく国民教化と統制支配
 前述したように,旧憲法の基本原理は「国体」の原理であり,また,国家神道は,この「国体」の原理を教義とし,天皇を祭主とする宗教であって,事実上,国教的地位を与えられていた。すなわち,旧憲法下における国家体制は,国家神道と密接不可分の関係にあり,天皇が統治権の総攬者であると同時に国家神道の祭主でもあるという,完全な「政教一致(祭政一致)」の体制であった。
 旧憲法下においては,「政教一致」により,天皇は神格化ないし絶対化され,「臣民」は天皇の意思や命令に対して無条件に服従することが強いられるとともに,国家のあらゆる意思,あらゆる作用は,究極において,天皇の神聖にして侵すべからざる意思に淵源を有するとされた。また,国家神道は,国家の国民に対するイデオロギー的支配の道具として最大限に利用され,それによって国民教化がなされるとともに,国民の精神生活が全面的に統制支配されていた。
 ところで,このような国家神道の教義(「国体」の原理)による国民教化と国民の精神に対する統制支配は,以下に見るとおり,主として「宗教」「教育」「軍事」および「治安」の各政策を通じて行われた。
1)宗教政策
 まず,宗教政策においては,前に詳述したように,国家神道の強制と各宗教に対する徹底的な統制という形で,国民の精神に対する支配がなされた。旧憲法下にあっては,各宗教の上に国家神道が君臨する宗教体制が構築され,建前としての信教の自由を掲げながら「神社は宗教にあらず」と強弁することにより,国家神道を全国民に強制することが行なわれた。また,「国体」の原理にとって異端的な宗教は,厳しい取締りを受け,不敬罪や治安推持法によって容赦なく弾圧された。この種の宗教弾圧事件としては,大本教事件(1921年,1935年),ほんみち事件(1928年,1938年),ひとのみち事件(1936年),新興仏教青年同盟事件(1936年),日本灯台社事件(1939年),ホーリネス教会事件(1942年),創価教育学会事件(194

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3年)などが挙げられる。
 そして,戦時体制が強化されるに伴い,大半の宗教は,国家神道に完全に従属し,国策奉仕と戦争協力によって国家神道を補完し,国民を戦争に駆り立てる役割を担わせられた。
2)教育政策
 次に,教育政策においては,1890年に,学校教育を通じて「国体」の原理を国民に普及徹底させる目的で,教育勅語が発布され,以後,教育の基本方針として絶対化された。教育勅語は,その冒頭で「朕惟フニ,我力皇祖皇宗,国ヲ肇ムルコト宏遠二,徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」と述べ,日本の国家が神である皇祖皇宗によって始められ,道徳は皇祖皇宗に発しているとした。次に「我力臣民,克ク忠二,克ク孝二,億兆心ヲーニシテ世々蕨ノ美ヲ済セルハ,此レ我カ国体ノ精華ニシテ,教育ノ淵源亦実二此二存ス」と述べて,臣民の忠孝こそ「国体の精華」であり,教育の淵源も「国体」にあるとした。さらに教育勅語は「一旦緩急アレハ,義勇公二奉シ,以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と述べ,戦争等の非常事態に際しては,神権天皇制国家のためにすべてを捧げることを命じていた。教育勅語は,各学校に下賜されるとともに,全国の小学校には,天皇・皇后の「御真影」が下賜され,1891年の文部省令「小学校祝日大祭日儀式規程」では,祝祭日における「御真影」への最敬礼,教育勅語奉読等の国家神道的儀式が定められた。また,学校教育,なかでも義務教育である初等教育では,修身・国吏を中心に,「国体」の教義の普及徹底が図られ,記紀神話は疑うことを許されない事実であるとされた。このようにして,教育勅語の基本理念である「国体」の教義は,学校教育を媒介として国民の精神構造の末端まで浸透し,支配するようになった。
 1935年には,天皇機関説事件を契機として「国体明徴運動」が起き,それに伴い,文部省は,「国体」観念の普及を目的として,1937年に「国体の本義」,1941年に「臣民の道」をそれぞれ刊行し,各学校その他に配布した。それらは国民教育の基本として位置づけられ,軍国主義的な国民強化を推進するうえで,大きな役割を果した。
 なお,旧憲法には,学問の自由を保障する規定はなく,学問は勅令事項とされていた。そして,大学令第1条により,学問を担う大学は「国家二須要ナル学術」を研究教授するものとされ,そこでは,天皇制の神話や「国体」の批判,社会主義の研究等,真理の探究としての学問の自由は抑圧され,国家主義的目的の範囲内でしか研究の自由も大学の自治も認められなかった。このような中で,学問の自由に対する国家的干渉の事件として,森戸事件(1920年),滝川事件(1933年),天皇機関説事件(1935年),矢内原事件(1937年),河合事件(1938年),津田事件(1940年)などが起きた。
3)軍事政策
 さらに軍事政策においては,1882年に「軍人勅諭」が出され,忠節・礼儀・武勇・信義・質素の軍人精神の規範を示すとともに,国民に対し,天皇の軍隊としての絶対服従の精神を要求した。それは,「朕が国家を保護して上天

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の恵に応じ祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得ざるも,汝等軍人が其職を尽すと尽さざるとに由るぞかし。」と述べて,「国体」の原理を前提とするものであることを明らかにするとともに,「死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ。」と述べて,人命軽視・滅私奉公の思想を国民に植え付けるものであった。
 さらに,1941年に東条英機陸相によって全陸軍に布達された「戦陣訓」も,「国体」の観念を中心に説かれた軍人に対する訓戒であったが,それは「命令一下欣然として死地に投ぜよ」「生死を超越し従容として悠久の大義に生くることを喜びとすべし」「生きて虜囚の辱めをうけず」などと述べて,「国体」、の教義のために殉じる「玉砕」の思想を国民に強制するものであった。
4)治安政策 最後に,治安政策においては,1925年に治安維持法が制定され,「国体」の教義に反する思想・言論・表現・集会・結社の自由を抑圧するうえで,強大な力を発揮した。
 すなわち,治安維持法第1条1項は,「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之二加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁鋼二処ス」と規定していたところ,「国体の変革」という構成要件が極めて抽象的であったため,拡大適用がなされて,自由主義的思想や平和主義的思想の弾圧にも利用された。その結果,国民の精神的自由が著しく脅かされた。そして,1928年の改正では,刑罰が加重されて「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務二従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁鋼二処ス」と規定され,また,1941年の改正では,予防拘禁制が導入されて,思想統制・宗教統制が一段と厳しさを増し,戦時体制が強化されていった。

3 国家神道体制における「個人の尊厳」の否定
 以上述べてきたように,旧憲法下の「政教一致」の体制においては,国家神道の教義である「国体」の原理は,批判力のない小学生の段階から画一的な学校教育を通して植え付けられ,また,成人してからは軍隊という閉鎖社会の中で叩き込まれ,さらに治安立法の刑罰でもって国民に強制されていった。また,「国体」の原理は,宗教的性格を有しているが故に,国民の精神の深底まで浸透して支配し,その結果,国民は,「国体」の原理の実現という国家目的のための道具に過ぎない存在であると信じさせられた。特に戦時体制にあっては,国民の「個人の尊厳」は完全に否定され,国民一人一人が本来有している生命・自由および幸福追求の権利は,国家目的のために犠牲にされて,全く顧みられなかった。
 現行憲法が「政教分離」の原則を採用したのは,このように,旧憲法下の「政教一致」体制のもとにおいて,国家神道の教義である,神権天皇制を核とする「国体」の原理が,全体主義・軍国主義の精神的支柱として機能し,それによって国民の「個人の尊厳」が否定されるとともに,国民および近隣諸国民に償うことのできない戦争の惨禍をもたらしたことに対する反省からであった。現
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行憲法は,旧憲法の基本原理である「国体」の原理を否定して,「人類普遍の原理」である「個人の尊厳」の原理を基本原理として採用したが,「政教一致」から「政教分離」への変遷は,右基本原理の質的転換にまさしく対応するものであって,極めて本質的な憲法的意義を有するものである。
 すなわち,政教一致の場合にあっては,国家権力は,宗教の力を利用することによって,自己を神格化ないし絶対化し,国民に絶対服従を強いるとともに,宗教によって国民を教化し,その精神を統制支配するに至る。当然,このような状況の下にあっては,信教の自由ぱかりではなく,思想・良心の自由,表現の自由,集会・結社の白由,学問の自由などの精神的自由がことごとく侵害される結果となる。言うまでもなく,国民主権に基づく民主政治は,国民の精神的自由が保障されていること,すなわち,国家による国民の精神に対する支配が行なわれていないことが必須の前提である。また「政府の行為による戦争の惨禍」の発生を未然に防止するためには,民主政治が確立されていることが不可欠である。従って,このように政教一致によって国民の精神が統制支配されることになれぱ,国民主権主義および基本的人権尊重主義が成り立つ余地はなく,また,軍国主義の方向へ突き進むことは自然の勢いである。さらに,国家による国民の精神に対する支配は,国家目的に適合する画一的な国民を増産する結果をもたらし,社会全体が,精神的活力を失い,硬直化していくことになる。すなわち,そこにおいては,「個人の尊厳」の原理が妥当する社会に成立する「各人の多様性を承認しながら共存する人間関係」において見られるような精神的豊かさと活力は存在しない。
 結局,政教一致のもとにおいては,現行憲法の基本原理である国民主権主義・基本的人権尊重主義・永久平和主義がすべて否定されることになるが,これは一言でいえば,右各主義の根底にある「個人の尊厳」の原理の否定である。「政教分離」の原則は,このような政教一致による弊害をなくすために,国家と宗教とを厳格に分離し,それによって「個人の尊厳」の原理が妥当する社会の実現を保障するという,極めて重大な役割を担っていることを銘記すべきである。

第2章 靖国神社の歴史とその本質
第1問題の所在
 前章に叙述した国家神道の歴史の中にあって,靖国神社は枢要かつ特異な地位を占める存在であった。そして憲法原理と宗教法制が根本的に転換した現在なお,その基本的性格は牢固として不変であると評価すべきである。
 その基本性格とは,@国家神道中の軍国主義的側面を代表する存在であること,A国家神道を最も強く国家と結び付ける衝動を有する宗教施設であること,の2点に集約し得るといえよう。
 本件訴訟は、現役の内閣総理大臣の靖国神社への公式参拝という行為を,政教分離という憲法原則に違反するとして断罪するものである。したがって,憲法20条にいう実定憲法条項上の「宗教団体」に該当するものとして,靖国神社の何

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たるかを確定することが必要であることはいうまでもない。しかし,単にそれに止まらず,我が日本国憲法に独自の政教分離原則の正確な解釈の前提としても,靖国神社の歴史を概観することが不可欠である。そうすることによって,外見上すべての宗教ないし宗教団体に中立である現行憲法の政教分離原則が,実は国家神道なかんずく靖国神社における国家との関わりを最も警戒するものとして創設されたものであることが,自ら明らかとなろう。

第2 国家神道体制下の靖国神社
1 靖国神社前史
 国家神道は,基本的には神社神道と宮中祭祀を結合させることによって成立したが,これだけでは十分でないとして,神権天皇制確立の目的の下に新たな宗教施設を幾つも創設した。靖国神社もこれら一群の「創建神社」のひとつである。わが国古来の伝統としてはなかったものを,近代天皇制がその特殊な目的から作り出したものであることが留意さるべきである。
 靖国神社の前身は1869年に創設された東京招魂社であるが,「招魂」の思想と習俗はテロリズムが横行した幕末の,血生臭い極めて特殊な一時期の世相の中で生じたものである。1862年京都の東山霊山における招魂祭を嚆矢として,尊皇派志士と称する者の間にあって,盛んに招魂場が設けられ,招魂祭が営まれた。そこはテロや戦闘に倒れた自派の死者の霊魂を讃え慰めるとともに,後に続く者が敵への復讐と,復讐のために自らの死を賭することを誓う儀式の場であった。後に明治政府の軍隊の基礎を作った長州藩においては,招魂場に生墳(生前に作る墓)を併せ造って死を覚悟の証しとすることさえした。この政治的・軍事的色彩の強い宗教観念は,自派の犠牲者のみを慰霊・顕彰し,反対派の死者を一顧だにしない点に特徴があり,それは戦場で倒れた者は敵味方の区別なく供養するという我が国の伝統的宗教観とはまったく異なるものであつた。
 「招魂」の思想は,果てしなく敵を憎悪し,自派の犠牲者の霊に敵に対する報復を誓う思想であり,味方の士気を鼓舞し死地に赴かせるために,極めて効果的な信仰であった。ここに,「靖国」の教義の原型を見ることができる。
2東京招魂社の創建
 戊辰戦争において,官軍は大きな戦闘のたびに陣中で招魂祭を行い,自軍の戦没者を慰霊・顕彰した。この時期の官軍の実体が倒幕派諸藩の藩兵の寄せ集めに過ぎず天皇の軍隊としての自覚が乏しかったため,兵士の士気を鼓舞し官軍としての意識を高める必要があったからである。
 事実,招魂祭は天皇への忠誠心を高揚させる上で大きな効果を発揮した。 戊辰戦争さなかの1868年6月2日,江戸城内で征東大総督府によって神道式の大招魂祭が行われ,官軍戦没者の慰霊・顕彰がなされたが,その際の祭文は自軍を「皇御軍(すめらみいくさ)」と称え,旧幕府軍を「道不知醜の奴(みちしらぬしこのやっこ)」と呼んで卑しんだ。「招魂」の思想の特徴である敵と味方,官と賊の峻別を象徴するものといえよう。

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翌1869年,東京遷都が行われるとともに,東京に全国的規模の招魂社を新設する運びとなり,陸軍の創設者大村益次郎を中心として、「九段坂上田安台」の地を選定して東京招魂社が建立され,同年6月29日諸藩から届け出のあった官軍戦没者3,588名を同社に合祀して盛大な招魂祭を挙行した。同年9月兵部省は同社の祭典を定めたが,例大祭は正月3日(伏見戦争記念日),5月15日(上野戦争記念日),5月18日(函館降伏日),9月22日(会津降伏日)というものであった。
 明治新政府にとっては統一された強大な天皇の軍隊を創設することが急務であり,天皇軍戦没者を賞揚し,手厚く遇することによって兵士の士気を高めるという効果を期待した。この目的ゆえに東京招魂社は,最初から破格の取扱いがなされた。同年8月明治天皇は東京招魂社に祭祀料等として社料1万石を与えたが,これは国家神道の本宗・伊勢神宮に次ぐ優遇であった。また,1971年正月3日の大祭以後,天皇の紋章である菊花一六弁紋章入りの紫幕の使用が特に許され,天皇自身も1874年1月(例大祭),75年2月(台湾征討戦死者合祀臨時大祭),77年11月(西南戦争戦死者合祀臨時大祭)と三度の大祭に行幸して「御拝」した。天皇が「臣民」を祀る社祠に直接参拝することは古代天皇制の成立以来空前の出来事であり,この親拝は天皇軍戦没者に対する破格の処遇を意味した。
 なお,1875年政府は各地の招魂社に祭られている霊を東京招魂社に合祀することを決定した。この措置により地方招魂社は東京招魂社(靖国神社)に結び付けられ,その地方分社としての性格を持つことになった。

3 別格官幣社靖国神社の成立
 1879年6月,東京招魂社は靖国神社と改称し,別格官幣社の社格を与えられた。同月25日挙行の改称列格の臨時大祭では,次の祭文が奉上された。「……明治元年と云う年より以降(このかた),内外の国の荒振寇等(あらぶるあたども)を刑罰(うちきた)め,不服(まつろわぬ)人を言和(ことやわ)し給ふ時に,汝命等(いましみことたち=祭神を指す)の赤き直き真心を以て,家を忘れ身を擲て,各も死亡(みうせ)にし,其の大き高き勲功に依てし,大皇国をぱ安国と知食(しろしめ)す事そと思食(おぼしめ)すが故に,靖国神社と改称(あらためとな)へ,別格官幣社と定奉りて……」社名の「靖国」の出典は,中国の吏書『春秋』・「左氏伝」中の「吾以て国を靖(やす)んずるなり」とあるのに拠り,「靖国」は「鎮国」と同義であるという。東京招魂社の社格化は,国家神道体制を造り上げる一環としての措置であり,以後靖国神社は神権天皇制国家の理念を体現する新神社として国家神道の有力な支柱となった。また,東京招魂社時代には個々の忠死者の慰霊・顕彰が中心であったが,「靖国」神社と改称されることになり,国すなわち神権天皇制国家の守護を第一義とする神社に変わり,幕末以来の「招魂の思想」は「靖国の思想」へと展開していったといえよう。
 靖国神社に与えられた「別格官幣社」という社格は,1872年に楠木正成

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を祭神とする湊川神社を創建した際に新たに制定されたもので,「臣民」を祭神とする神社のために創案された最高の社格であった(なお,当初明治政府は,国民への教育的効果を高めるために,湊川神社を官幣社とする意向であったが,いかに忠臣でも,人間でしかも臣下に過ぎない楠木正成を,天神地祇と同格に
扱って官社の祭神とすることには根強い反対があったことを付言しておく)。
 靖国神社は,一般の神社が内務省の管轄にあったのに対して,内務・陸・海軍省の共同管轄を経て,1887年からは,陸・海軍省の管轄となり,常務は陸軍省総務局が担当した。同神社の警護には憲兵があたり,また境内には国内唯一の公開軍事博物館である「遊就館」が設けられた。臨時大祭の祭典委員長は現役の陸海軍将官が務め,宮司は陸海軍省が任命した。靖国神社の祭神は極秘裏に陸海軍省で戦没者を審査し,天皇に上奏しその裁可を経て合祀した。
 靖国神社は個々の国事殉難者,戦没者を祭神としているため,戦争のたびに祭神が増え続けるという特異性を有していた。靖国神社の神体(みたましろ)は,東京招魂社創建以来の神鏡と神剣であるが,祭神が多数に上るため,祭神の名簿「霊璽簿」を調製して副神体(そえみたましろ)とし,それには生前の身分・地位に関わりなく将官も兵士もすべて同じ型式で祭神の氏名が戦没年月日・出身地・軍における階級・勲等・金鵄勲章の等級を付して記入された。このような取扱いは,天皇のために一命を捧げることにより初めて差別から開放され,平等に扱われることを意味していた。

4 日清・日露戦争と靖国神社
 靖国神社は日清・日露戦争を機に急速な発展を遂げ,国家神道体制における地位を大きく高めた。
 日清戦争(1894〜95年)では,13,267名の戦没者を出したが,そのうちの86パーセントに当たる11,472名は戦病死者であった。1895年12月の靖国神社臨時大祭は,同戦争の戦闘死者,戦傷死者,捕虜になって死亡した者等を合祀したが,先例により戦病死者を除外した。種々の政治的配慮から,陸軍大臣告示によって,戦病死者が「特祀」されることとなったのは,日清戦争講和から2年4月を経た1898年10月であった。
 以降これが前例となって,靖国神社の祭神数は飛躍的に増えることになり,一段とその重要性を増すことになった。明治天皇は日清戦争の戦没者を合祀する二度の臨時大会(1895年12月,98年11年)にいずれも参拝したが,これ以後合祀の臨時大祭は大元帥の軍装をした天皇が靖国神社に赴き,社殿に昇殿して祭神に一礼する「親拝」が例となった。
 本格的な近代戦であった日露戦争(1904〜05年)では戦没者が続出し,その合祀者は88,133名に上った。大江志乃夫教授の指摘によれば,当時の兵役適齢人口100人につき13人が戦死したことになるという。当然国民の不満は大きかった。日露戦争さなかの1905年5月,政府は靖国神社に5万円を特別寄付して急遽盛大な臨時大祭を行い,30,883名の戦死,戦病死者の合祀を行った。天皇皇后は名代を遣わし,祭祀料を下賜した。戦後2度
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行われた臨時大祭には,いずれも「親拝」が行われている。戦没者を神として靖国神社に合祀し,現人神である天皇が参拝するという栄誉は,遺族の不満や厭戦気分を押さえる上で極めて大きな効果があった。
 もっとも,政府は戦後の軍備拡張に予算を注ぎ込み,この戦没者に多くを報いることがなかった。「実態としての戦没者に対する取扱いの疎略,すなわち国家が果たすべき政治的経済的責任の放棄にたいして,いわば安上がりの,表面的な尊敬の表明をもってするとりつくろいとでもいうもの,すなわち国家が本来たちいってはならない個人の聖域への介入として表現されたのが,慰霊と顕彰の行事であり,その中心が靖国神社であった」(同教授「靖国神社」130ぺ一ジ)。
 それまで,「忠魂」,「忠霊」などと呼ばれていた靖国神社の祭神を「英霊」と呼ぶことが一般化したのも日露戦争後であるが,同戦争により祭神の数が急激に増加したため,個々の祭神の個性が薄れて「護国の英霊」として抽象化され美化されるようになった。
 靖国神社の例祭日については何度か変更があったが,1917年12月,春季例大祭を日露戦争の陸軍凱旋観兵式の記念日である4月30日に,秋季例大祭の日を日露戦争の海軍凱旋観艦式の記念日である10月23日に,それぞれ改められた。それまでの内乱における「官軍」勝利記念日から,「天皇が戦勝大日本帝国の帝国陸海軍の大元帥としての威光を内外に誇示した記念日」(前記「靖国神社」131ぺ一ジ)としたものである。この例祭日の変更は,官軍の威光を対内的に誇示することから,対外的戦意高揚へと当神社の役割の展開を象徴するものであった。
 このようにして,日露戦争後,靖国神社の存在は国民の意識の中に急速に根を下ろし,国民統合の精神的中核としての役割を果たすようになった。

5 ファシズム体制と靖国神社
 満州事変勃発から太平洋戦争にかけてのファシズムの最盛期には,国内での戦時体制が強化され,思想統制・宗教統制も厳しさを増した。
 日中戦争においては,戦没者の数が激増したが,その中にあって靖国神社は「聖戦」完遂の精神的支柱としての役割を果たし,益々その重要性を高めた。日中戦争開戦の翌年の1938年には,陸軍大将鈴木孝雄が宮司として任命され,翌年から「戦没勇士遺児」の集団参拝が始まった。
 従前各地の招魂社は,内務省の管轄下にあったが日露戦争直後,内務省が招魂社の祭神を靖国神社合祀者に限るという方針をとったことから,靖国神社の地方分社化がさらに進んだ。日中戦争の長期化とともに政府は1939年一斉に招魂社を護国神社と改称し,道府県あたり一社を府県社に準ずる指定護国神社とし,他は村社に準ずる指定外護国神社とした。
 また日露戦争の時期から,地元の戦没者を祀る忠魂碑が全国各地で盛んに建立されたが,これらは1910年から軍の管轄下にある帝国在郷軍人会により管轄されるとともに,新たに多くの忠魂碑が建立された。忠魂碑の前では盛ん

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に招魂祭・慰霊祭が営まれ,忠君愛国教育の一環として,生徒児童による忠魂碑参拝が行われた。日中戦争下では,陸軍の主導で外地の主要な戦跡と国内の一市町村に一基の忠霊塔を建設する運動が展開された。そして,忠霊塔の建設費の募金のために,一日分の給与を戦死したつもりで寄付する「一日戦死」の運動などが全国的に広まった。
 このようにして,国レベルの靖国神社,道府県レベルの護国神社,市町村レベルの忠魂碑・忠霊塔というように,英霊顕彰と国民教化の網が全国の隅々まで張り巡らされ,天皇崇拝と軍国主義の普及に絶大な力を発揮して,国民を「聖戦」完遂に駆り立てる役割を果たすことになった。さらに,戦地では,従軍神職制度が定められ(1939年),従軍神職によって,広東,南京,済南,北京等の各地で戦没者の大規模な慰霊祭が行われた。
 1940年中国戦線の華北・張家口で皇族である北白川宮永久が戦死した。本来靖国神社は,「臣民」を祭神とするもので,前例(台湾で戦病死した北白川宮能久(=永久の祖父)における台湾神社建立)に従えぱ現地にこれを祀るための神社が創建されるはずであったが,戦況がこれを不可能としたため,靖国神社にこれを合祀した(なお,敗戦によって台湾神宮(台湾神社が改称)が消滅したことから,戦後北白川官能久も靖国神社に合祀された。これにより,現在靖国神社は皇族の祭神2柱を1座とし,その余の臣民の祭神246万余柱を1座として,各座単位に神神饌幣帛を捧げている。このように靖国神社では,皇族と「臣民」との区別は現在においても厳然と守られている)。
 靖国神社の役割を,この時期の傀儡国家「満州国」との関わりの中に見ることができる。満州国」では国家神道を忠実に模倣した国家宗教がつくられた。1940年6月来日した「満州国」皇帝溥儀は,伊勢・橿原・明治の各神宮(天皇の祖先神を祀る神社を特に神宮といった。それぞれ,皇祖アマテラスオオミカミ・初代天皇神武・近代の天皇明治を各祭神とする)の他には,靖国神社に参拝した。その帰国直後の7月15日「首都」新京(長春)において,伊勢神宮に相当する「建国新廟」(アマテラスオオミカミを祭神とする)の鎮座式が行なわれ,同年9月18日(満州事変勃発の記念日)には靖国神社を模した「建国忠霊廟」を鎮座し,満州事変以来の「満州国」戦没者4,264名と日本軍戦没者24,141名が合祀された。当時,伊勢神宮と靖国神社,すなわち天皇の祖先神を祀る神社と,天皇のために忠死した戦没「臣民」を祀る神社の両者が国家神道の二大支柱とされていたことの証左である。
 太平洋戦争の開戦以後は,戦争完遂のための神社の役割は益々重要と観念されるに至った。開戦の翌日である1941年12月9日,天皇は宮中三殿で臨時大祭を執行して宣戦を親告した。続いて,神宮,皇陵,官国幣社に勅使が遣わされて,宣戦奉告した。翌42年4月には,太平洋戦争後最初の靖国神社臨時大祭が行われ,日中戦争の戦没者15,017名が合祀され,翌日天皇・皇后が参拝した。また,同年10月にも臨時大祭が行われ,15,021名が合祀された。42年12月8日には,全国の神社で「大東亜戦争一周年国威宣揚祈願祭」が執行され,靖国神社では国民大会が開催されて「聖戦」完遂が呼号

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された(その後同神社は社域の旧説馬場に戦場ジオラマを設置するなどして戦意高揚をはかった)。同月15日,臨時内務大臣事務管理・東条英機は,全国の神宮・神職に対して訓令を発し,「祭祀の厳修と神威の顕揚」を命じた。44年8月には,神砥院は,全宮神職にたいして,「寇敵撃滅祈願」を訓令している。
 「生きて帰ると思うなよ。今度会うの靖国神社だ」という言葉が,国民を天皇の兵士として死地に送り込む際の呪文となった。天皇のために戦って死ぬことが,臣民たる者の最高道徳とされたのである。国家神道は,国民の精神生活を天皇崇拝に結び付けるイデオロギー体系であったが,さらに靖国神社の存在は国民をして天皇の兵士として忠死することを美徳とし,覚悟せしめる役割を果たしたのである。

おわりに 〜靖国神社の本質〜
 以上のとおり,靖国神社は,その前身である東京招魂社の時代から,天皇軍の戦死者のみを天皇に対する忠誠ゆえに神として慰霊し,以て天皇軍の士気を鼓舞すると同時に天皇への忠誠心を強化するという役割を持った軍事的宗教施設であって,常に戦争や軍国主義と扁になって発展を遂げてきた。
 また,靖国神社は,「天皇」と「軍」と「神社」の三者を一体とした性格を有しており,天皇の名による戦争の戦没者を神として讃え,顕彰することによって天皇の兵士としての忠誠心を宗教的情熱をもってかきたて,天皇のための死を美化する装置であったといえよう。それゆえ,軍国主義の機運が高まるとともに,その精神的支柱として,靖国神社の果たす役割はますます大きくなっていった。
 政府の行為による侵略戦争に強制的に駆り出されて,戦死した者は,本来国の犠牲者である。国は本来陳謝すべき立場にある。加害者である国が被害者である戦没者を国のために戦って死んだ者として「称揚」し,「顕彰」すること自体が大きな矛盾というべきである。戦前,天皇の名による戦争は,実質的には侵略戦
争であっても,無条件に「聖戦」と呼ぱれて美化されたが,このことは国の戦争責任を曖昧なものとすると同時に,上に述べた矛盾を覆い隠すものであった。
 靖国神社は,戦没者の慰霊・顕彰を通じて兵士の士気を鼓舞し,国民の間に天皇崇拝と軍国主義の観念を植え付けるという国民教化の面で絶大な役割を果たしたが,その歴史からも明らかなように,同神社は本質的に神権天皇制国家およぴ軍から切り離して考えることができない性格のものであった。国民は,初等教育の段階から,天皇に忠義を尽くし,靖国神社に神として祭られることこそ,臣民の最高の栄誉であるという「靖国の思想」を教え込まれた。尋常小学修身巻四は,靖国神社に関して次のように記述する。
 「靖国神社は東京の九段坂の上にあります。この社には君のため国のために死んだ人々をまつってあります。春(4月30日〉と秋(10月23日)の祭日には,勅使をつかはされ,臨時大祭には天草皇后両陛下の行幸啓になることもございます、君のため国のためにつくした人々をかように社にまつり,又ていねいなお祭をするのは,天皇陛下のおぼしめしによるのでございます。私どもは陛下の

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御めぐみの深いことを思ひ,ここに祭ってある人々にならって,君のため国のためにつくさなけれぱなりません。」
 また,小学唱歌「靖国神社」の歌詞は次のとおり,短く靖国神社の教義を語り尽くしている。
 「ことあるをりは誰もみな/いのちをすてよ君のため/おなじく神と祭られて/御代をぞやすくまもるべき」 靖国神社は戦後その形式においては民間の一宗教法人となった。しかし,前述のとおりその規則・社憲は戦前と本質的に何も変わっていない。そもそも,戦没者を神として祀るということは,その前提として,神権天皇制の国家理念および聖戦の観念がなけれぱ,成り立ち難いものである。
 以上のとおり,靖国神社は,まさに国家と宗教の癒着による最悪の実例を象徴するものである。本件訴訟に加わった日本・韓国の原告らは,国家神道ないし戦前における靖国神社の跳梁を決して許さない。そして,今日において国家神道・軍国主義の復活を防ぐことこそ,「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうに決意」した憲法が誓約するところであって,国の責務であると考える。

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